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ミュージシャンについて記述しています。他のマイケル・ジャクソンについては「
マイケル・ジャクソン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
マイケル・ジャクソン (Michael Jackson) |
| 基本情報 |
| 出生名 |
マイケル・ジョーゼフ・ジャクソン Michael Joseph Jackson |
| 出生 |
1958年8月29日
アメリカ合衆国 インディアナ州ゲイリー |
| 出身地 |
アメリカ合衆国インディアナ州ゲイリー |
| 死没 |
2009年6月25日(満50歳没)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス |
| ジャンル |
R&B ソウル New Jack Swing ファンク ロック ダンスポップ モータウン・サウンド ディスコ |
| 職業 |
歌手 ソングライター ダンサー 音楽プロデューサー 編曲 俳優 振付師 |
| 担当楽器 |
ボーカル マルチプレイヤー |
| 活動期間 |
1967年 – 2009年 |
| レーベル |
モータウン エピック・レコード ソニー・レコード マイケル・ジャクソン・カンパニー |
| 共同作業者 |
ジャクソン5 |
| 公式サイト |
MichaelJackson.com |
| 表・話・編・歴 |
マイケル・ジャクソン(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国の歌手、シンガーソングライター、ダンサー。"King of Pop"と称された。
ギネス・ワールド・レコーズでは『史上最も成功したエンターテイナー』として認定されている。CDやビデオなどの世界総売上げは7億5000万枚(2006年10月末現在)以上。
2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)医療センターに呼吸停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。50歳没。
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目次[非表示]
- 1 来歴
- 1.1 1958-1970
- 1.2 1971-1980
- 1.3 1981-1990
- 1.4 1991-2000
- 1.5 2001-2005
- 1.6 2006-2009
- 1.7 2009-
- 2 死亡時前後の状況
- 3 音楽性
- 4 ダンス・パフォーマンス
- 5 慈善活動
- 6 チャリティー・ソング
- 6.1 We Are The World(1985)
- 6.2 People Of The World (1999)
- 6.3 What More Can I Give?
- 6.4 I Have This Dream
- 7 事業
- 8 製作業
- 9 逸話
- 9.1 ショートフィルム
- 9.2 金銭感覚
- 9.3 結婚歴
- 9.4 ネバーランド
- 9.5 ディズニーランド
- 9.6 恋愛
- 9.7 食事
- 9.8 日本
- 9.9 私生活
- 9.10 ギネス・ワールド・レコーズ
- 10 主な事件
- 10.1 事実確認の取れない記事・報道の数々
- 10.2 暗い記憶
- 10.3 ソニーウォーズ
- 11 ディスコグラフィー
- 12 代表曲
- 12.1 モータウン時代
- 12.2 Off The Wall
- 12.3 Thriller
- 12.4 BAD
- 12.5 Dangerous
- 12.6 HIStory
- 12.7 Blood On The Dance Floor
- 12.8 Invincible
- 12.9 Number Ones
- 12.10 Michael Jackson's This Is It
- 13 アルバムセールス
- 14 ワールド・ツアー
- 14.1 BAD Tour
- 14.2 Dangerous Tour
- 14.3 HIStory Tour
- 15 日本公演
- 16 主な日本語書籍
- 17 映画
- 18 CM
- 19 ゲーム
- 20 ファミリー
- 21 影響
- 22 ファッション
- 22.1 手袋
- 22.2 靴下
- 22.3 ジャケット
- 23 関連項目
- 24 出典
- 25 外部リンク
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来歴 [編集]
1958-1970 [編集]
10人兄弟姉妹の8番目(六男)として、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる(すぐ上の兄マーロンの双子の兄弟が、誕生後すぐに死亡した)。ゲーリーは住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人たちにとっては最初の黒人市長が1967年に出た誇りの土地でもある。当時は黒人の自己主張が高まりだしていた頃で、金銭を多く持っていた白人がそこを去っていったため、街は一時的に無法状態が蔓延していた。
父のジョセフ・ジャクソンはUSスチール社の製鉄所の貧しいクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問は「Thriller」発売後も行っていた[要出典]。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンは「シアーズ」などの小売店でパートタイムとして働く事で家計を何とか補おうとしていた。
父は「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アーティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1957年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。
ところが或る時、愛蔵のギターを息子たちが勝手にいじりまわして弾いていたのを発見し、初めはカンカンに怒ったものの、息子たちの演奏がなかなかうまいことに気がついた。「これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれない」と思った父は、息子たちに歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキー、ティト、ジャーメインと従兄弟とされていた二人(実は他人)で1962年にボーカルグループを結成した。
翌年、マイケルは兄マーロンとともに二人の「従兄弟」と入れ替わりにグループに入る。マイケルは幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画サウンド・オブ・ミュージックのエンディング曲「全ての山に登れ」を歌っていた。マイケルは当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンド「Ripples & Waves Plus Michael(のち「the Jackson Brothers」と改名)」の一員として頭角を現した。
初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。
1965年には、地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストでテンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、見事優勝した。
1966年に4人の兄たちと「ジャクソン5」(ジャクソンファイブ)を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これによりジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時はまだまだ駆け出しであったため前座の出演であった。この過程でジェームス・ブラウン、ジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど様々なスターのパフォーマンスを勉強した。
地元ではインディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。
当初ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。
1968年7月にモータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの」(I want you back)でメジャーデビュー(マイケルは当初8歳の設定だったが実際には11歳だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、何とメジャーデビュー作であるにもかかわらずヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながらビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手はビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし見事1位を獲得。続く「小さな経験」(The Love You Save)「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。
1971-1980 [編集]
マイケルは1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月には人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年には「ベンのテーマ」もヒットした。
1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも出はじめた。マイケル本人も背が伸び、ひどいにきびに悩まされ、その上声変わりが追い打ちをかけて、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなった」などと冷やかされることもしばしばであった。
結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行う事になった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがザ・ジャクソンズに加入した。
このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム「Destiny」がヒットしその不安を一蹴する。この頃のザ・ジャクソンズのヒット曲としては、「Can you feel it」「Blame it on the boogie」「Shake Your Body (Down To The Ground)」(マイケルとランディの共作)などがある。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。
1978年ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「ウィズ」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していたとき、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」がエピックでのデビュー曲であった。
クインシーをプロデューサーに迎え「オフ・ザ・ウォール」を制作。7月先行シングルとして発表された 「Don't Stop 'Til You Get Enough」 は、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけたナンバーである。なお、この頃はドラムとピアノを使って作曲を行っていた。当時は黒人ということでさほどオンエアされなかったが、タキシードを着たマイケルが3人に分裂する映像は話題を呼び、全米チャートを制覇した。
8月に発売された「オフ・ザ・ウォール」は少年ボーカリストからの脱皮を印象付けることになる。ソウルミュージックを基本にした作品であり、ポップ色の強い後の作品とは異なった意味で高い評価が与えられている。
10月には「Rock With You」を発表。この曲では一人多重録音の技術が用いられている。非常に伸びやかな声が聞けるとして今でもこの曲のファンは多い。ビルボードでは4週連続1位を獲得している。
さらに、「Off The Wall」「She's Out Of My Life」と同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。しかし、後にマイケル自身が「スリラー」でこの記録を破ることになる。「オフ・ザ・ウォール」はロングヒットを飛ばし、次回作に期待を集めた。
ザ・ジャクソンズは1980年9月「マイ・ラブリー・ワン」(Lovely One)(マイケルとランディとの共作)、11月「ハートブレイク・ホテル」(This Place Hotel)(マイケル直筆)とシングルを出したが、これらがこの時期のザ・ジャクソンズの主要曲であることからも分かるように、この頃はグループの中でも非常に重要な位置を占めていた。「This Place Hotel」はもともと「Heartbreak Hotel」という名前であったのであるが、エルヴィスの曲と同じ名前になってしまう事もあったのか、後に改名している。「ビリー・ジーン」「ダーティー・ダイアナ」同様スキャンダラスな歌詞で知られている。
1981-1990 [編集]
1981年3月には1975年発売の「フォーエヴァー・マイケル」から、「想い出の一日」(One Day In Your Life)がモータウンから発売されたが、「オフ・ザ・ウォール」の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。
1981年12月には次回作のため、「オフ・ザ・ウォール」では「Girlfriend」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組むことになり3曲のデュエット(「The Girl Is Mine」「Say Say Say」、そしてポールのアルバム「パイプス・オブ・ピース」に収録された「ザ・マン」)を後に生むことになる。ポールとはプライベートで一緒になることが多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを見たとマイケルは語っている。
1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。ナレーションのほか、このアルバムのための楽曲“Someone In The Dark”を提供した。
1982年8月には、クインシーと2人でロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム「スリラー」は全米チャートで37週にわたり1位を記録。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、「スリラー」はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。
1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞・作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている[要出典]。2005年の無罪判決の時もジャーメインが「Larry King Live」に出演した時、司会のラリー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問している。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出ている事を念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。この作品は黒人であるにもかかわらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品のひとつとして知られている(もうひとつはプリンスの「Little Red Corvette」である)。
1983年5月には、モータウン25周年コンサート(Motown 25: Yesterday, Today, Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した(ビデオ映像)。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie Jean」を歌うことを条件に出したとされている[要出典]。この初披露のムーンウォークでは爪先立ちが上手く出来ず本人の満足のゆくものではなかったという。
2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、エディ・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat It」を発売。このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行った事で知られる。現在では当然のように撮影されているが、その原点と言われるのがこの作品である[要出典]。このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のチンピラ」を起用した。
そして、12月には後の多くの調査でミュージックビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男に変身したり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。監督はジョン・ランディス。1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。
また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシのCMでライブバージョンを撮影中、予想以上に火花が散り、その中から登場したマイケルは、頭頂部に大きなヤケドを負った[1]。皮膚移植手術によって、完治はしている。このときマイケルに対してペプシ側から推定3億円あまりの賠償金が支払われたが、マイケルは自身を治療した病院にこの賠償金を全額寄付した。また、この一件についてペプシ、製作者側を非難することはなく、両者の関係が悪化することもなかった。ラリーキング・ライブに出演した関係者[誰?]によれば、この事故以降鎮痛剤を睡眠薬代わりに常用し始めることとなる。
「スリラー」の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルは結局ソロ・ライブ「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。
ロナルド・レーガン大統領夫妻とともに(1984年5月14日)
1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We Are The World」をライオネル・リッチーと共作した。その姿勢は評価されたが、「バンド・エイド」の模倣であるとの揶揄、アメリカ中心主義ではないかとの批判もされ、賛否両論の結果となった。楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。ロナルド・レーガン大統領から授与された際、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評をかった[2]。持病として皮膚病を患っており、手袋を外さなかったのはマイケル側の配慮によるものである。
同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4750万ドルで購入。ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット・シングル(「The Girl Is Mine」、「Say Say Say」)を発表するなど親交が深かったが、マイケルの所持する大量のビートルズの版権をポールが売買してくれないかと交渉を持ちかけたところマイケルが断ったため、その後はさほど仲が良くない。なお、マイケルに音楽の版権を投資対象として買うよう勧めたのはポールであった[3]。マイケルはビートルズに対して特別な思い入れがあり、ジョン・レノンの次男ショーン・レノンと1988年の「ムーンウォーカー」で共演したり、「Come Together」をカバーしたりしている。なお、ビートルズの版権は20年後の2005年時点でも、購入した版権の半数を所有している。
1986年5月ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や公演も受け持つことになったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。
8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの制作に取り掛かった。完成したアルバム「BAD」は1987年8月に発表され、「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。表題曲「BAD」のショートフィルムは非常に奥深いビデオであり、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話[4]が基になったことから、マイケルの孤独感や疎外感を表しているのではという一説がある[要出典]。パフォーマンス部は今までの縦と横の動きに加え様々な動きを加えた複雑なダンスを披露した。振付はグレッグ・バージ。ロバータ・フラック、ウェズリー・スナイプスが出演し、マーティン・スコセッシが監督を務めた。
カハラ・ヒルトン・ホテルにてサインをするマイケル(1988年1月)
西ベルリンのコンサートに詰めかけた観客(1988年6月19日)
1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版され、4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストで初登場1位を獲得した。
この頃、社会的な問題に対しても目を向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌い、後のマイケルの作風につながる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸国の人物であるマイケルが出演したことで話題となった。
また、この頃ビートルズの版権を大量購入するなど、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。この曲はダイアナ・ロスを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。
7月発売のシングル「Another Part Of Me」は、1位記録とトップ10記録を同時に途切れさせてはしまったが、クインシーの手があまりつけられていない作品であったため、マイケルが新しい方向性を探しているのではという印象も与えた[要出典]。
1987年9月から世界ツアーを行い、1988年にかけてアメリカや西ドイツ、イギリスなどで公演を行った。日本に於いても「M.M.旋風」と称されるブームを巻き起こした。なお、もうひとつの「M」はマドンナである。
1989年、BREアウォーズでポップ・ロック・ソウルの三部門を制した。エリザベス・テイラーはこれを「The True King of Pop, Rock And Soul」と称した。
1991-2000 [編集]
世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、更なる極みを目指し「Dangerous」を制作。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消した。1991年10月に発売されたこのアルバムからの先行シングル「Black or White」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。全米チャートでも7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の映像技術であるモーフィングが採用され話題となった。
ところが、この曲のショートフィルムでは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的過ぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのバージョンのショートフィルムはその部分の映像に黒豹が登場することからパンサー・バージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことである)と呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや、人種差別団体の名前やハーケンクロイツが描かれた車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされたのだが、これに対する批判は多い。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一斉放映が許可されており、マイケルのビデオ作品ではじっくり見ることが出来る。アメリカでは深夜に放映されたという話はあるが、日中に放映されたという話はない。ただ、現在見られるパンサーバージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれた人種差別団体の名前などいくつか修正され、今ではそれらの文字は消されている。
アルバム「Dangerous」は1991年11月に発売され、ビルボードでは4週連続1位を獲得。発売後6週間で全世界での売り上げは1千万枚を突破した。このアルバムで共同プロデューサーとなったテディ・ライリーはクリフォードから、アルバム「Dangerous」は時代を先取りしていた、と後に評されている。発売日にはロサンゼルス国際空港でアルバム3万枚が銃で脅され強奪されるという事件も起こっている。
しかし、このアルバムの発売と前後してかつてマイケルを映像で世界的スターにしたMTVがグランジバンドニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を大量に流す事態が発生。それで強力に煽られることとなった1991年9月発売のニルヴァーナのアルバム「ネヴァーマインド」に連続を止められ、アメリカではかつてのMTV主導型のマイケルの音楽は商業的過ぎるという批判を受け出すことになる。そのため、アメリカでは評判は前作ほど良くはなかった。しかし、全世界ではこのアルバムは前作を超える3100万枚以上を売り上げることになる[5]。
1992年1月には「Remember The Time」を発売。翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィー、イマン・アブドゥルマジド(デヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと競演した。このショートフィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。このショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。この曲を1990年代最高のマイケルの曲に推す向きも多く、テディ・ライリーも2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。この際に訪れたコートジボワールでは「サン族の王冠」の称号を授与されている。
4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。7月にはNBAのマイケル・ジョーダンとMJ同士で競演する「JAM」が発表された。この作品ではHeavy D、ノーティー・バイ・ネーチャー、クリス・クロスなども共演している。これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。
HIStoryのプロモーションのためにヨーロッパ中に置かれた多くのマイケル・ジャクソン銅像の一つ
1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Gone Too Soon」「Heal The World」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する“事件”が起きた)。彼が皮膚病の尋常性白斑に罹患していることを公表したのも、この番組の中であった。
1993年スーパーボウル第27回大会のハーフタイムショーでライブを行う。大型のビジョンの中で踊るマイケル。その後、画面から上部に飛び出しヴィジョンの上でダンス。さらに中央のステージまで瞬間移動するというもの。さらには、1分13秒間ステージ上で静止するという前代未聞のパフォーマンスを見せ、ジャクソンのハーフタイムショーはスーパーボウルの前半戦よりも高い視聴率を記録した。このジャクソンのパフォーマンスは、スーパーボウル・ハーフタイムショーの新たなスタンダードを築いたと言われている。結果、スーパーボウル単体としての価値が上がり、現在のような世界のトップアーティストを毎年ハーフタイムショーに招くことが定着していったのであった。ちなみにこの壮大なライブにも関わらずスーパーボウルのハーフタイムショーの伝統上マイケルはノーギャラでこのライブを行った。[6]。
マイケルは少年に性的虐待を行った疑惑のマイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。1994年にはMJJプロダクションズを設立した。1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。
1994年10月のベストアルバム発売が予定されていたが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)「HIStory」を発売した。タイトルは“history”と“his story”を掛けたものである。当初は新曲は4曲で1枚のベストアルバムの予定であったが、延期され新曲が大幅に追加された。収録曲「D.S.」(この楽曲の名称はマイケルを訴えようとした検察官トム・スネドンを暗示したものと言われている)などマイケルにしては世間に対する主義主張の強い、イデオロギー性の強いアルバムである。一説には二枚組としては世界最高売り上げのアルバムとも言われている。
アルバムの発売に先駆けて5月先行シングル「Scream」が発売され、妹のジャネットとのデュエットが話題となった。二人の仲が良いことは有名で、ジャネットは自身のライブ中に裁判で戦っているマイケルに祈りを捧げたことがある。また当時の彼女の人気はマイケルに追いつくほどであり、一部からマイケルを超えたとも評されるほどであった。
8月「You Are Not Alone」を発売。史上初のビルボードHot100における初登場1位を獲得した。ショートフィルムでは当時の妻リサ・マリーとセミヌードで競演。
12月には地球環境の破壊について切実に歌い上げた「Earth Song」をヨーロッパでカット。イギリスでは6週連続1位を獲得、イギリス国内だけでも100万枚を突破し、イギリスにおけるマイケル最大のヒット曲となった。マイケルのお気に入りの曲の一つでもある。
1996年4月には「They Don't Care About Us」をシングルカット。ところが、歌詞の一部が反ユダヤではないかとして批判を浴び、マイケルは自身が反ユダヤではないと弁明することとなった。ミュージックビデオのうちプリズンバージョンはMTV等の番組で放送が自粛され、ビルボードでは最高30位。しかし、ドイツでは首位を獲得している。
1996年9月から3度目の世界ツアーを行う。韓国では熱狂した少年がマイケルの乗るゴンドラに飛び乗るというハプニングもあった。11月14日にデビー・ロウと二度目の結婚。
1997年、突如「Blood on The Dance Floor」(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。600万枚以上の売り上げを記録した。マイケルは表題曲をエルトン・ジョンに捧げたとされている。詳しい経緯は分かっていないが、エルトン・ジョンはエイズの少年ライアン・ホワイト(1971年-1990年)に関する話でかつて協力し合った仲である。エルトン・ジョンは後の裁判の際には最後まで沈黙を守り続けている。
この直後、ソニーとの確執は表面化し、1997年10月に発売されるといわれていた「ヒストリー」からの第7弾シングル「スマイル」が販売停止となった。
1998年7月に来日し、世界空手道連盟加盟団体の士道館から名誉五段を授与される[7]。またこの際に「マイケル・ジャクソン・ジャパン」の設立を発表し、日本をはじめとして、アジアやアメリカでテーマパーク「World Of Toys」の建設や、国内外での玩具店の直営及びフランチャイズ方式での経営を行う計画を発表するが、その後計画は解消となる。
1999年6月にはマイケルと有志の友人たちがふたつのチャリティコンサートを開いた。収益金は赤十字、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。
この頃ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーのウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクションにデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をかけていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。この当時何曲かのシングルの発売の噂は出ていたが、全て実現しなかった。
2001-2005 [編集]
2000年12月12日に、第16回ロックの殿堂入りが決定していたが、2001年3月に正式にロックの殿堂入りした。なお、マイケルはジャクソン5としても1997年に殿堂入りしている。
2001年10月、最新オリジナルアルバム「Invincible」を発表。タイトルは「無敵で、いつまでも成長し続けることで人々のために貢献する」という意味合いを込めたもの。当初は1999年11月9日発売の予定だったものが数回延期され、2001年10月30日(US)発売となった。このリリースの直前、レコード会社の凄まじい圧力に痺れを切らしたマイケルはトミー・モトーラにもはやこのアルバムで最後だと通知した(実際、このアルバムが生涯最後のものになった)[8]。この後マイケル側とレコード会社側は激しいバトルを繰り広げる事になる。(後述#ソニーウォーズ)
8月先行シングルとして発売された「You Rock My World」はフランスで5週連続1位を獲得。スマッシュヒットとなる。
「Butterflies」は米国内でラジオ向けにシングルカットされたのみで、CDとしてのシングルカットはなかったのにもかかわらず、大きな反響を呼びエアプレイだけでビルボードで14位まで上り詰め、R&B・ヒップホップシングルチャートでは2002年年間12位を記録した。
同年9月7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝うコンサート「Michael Jackson: 30th Anniversary Celebration, The Solo Years」を行った。日本からは安室奈美恵が駆けつけ、オノ・ヨーコも参加した。9月7日は兄弟達と出演し、終幕はクインシー・ジョーンズの指揮で出演者全員による「We Are The World」が演奏された。9月10日には最後の「You Rock My World」でアッシャーとクリス・タッカーがパフォーマンスに参加した。コンサートはチケット総売り上げ額10,072,105ドル、観客総動員数34,884人と成功のうちに終わったが、その翌朝アメリカ同時多発テロ事件が起こる。
事件に衝撃を受けたマイケルは、「We Are The World」を再現したような豪華アーティストを集めたチャリティシングル「What More Can I Give?」を企画。この曲はもともとはコソボ自治州のアルバニア系住民に捧げる予定であった曲で1999年には既に存在していた。マライア・キャリー、セリーヌ・ディオン、ジャスティン・ティンバーレイク、ビヨンセ、リッキー・マーティンらスターを集めてコンサートを開催した。しかし、10月にレコーディングは終わっていたのにもかかわらずプロデューサーのスキャンダルなどの影響でCD発売は実現しなかった。ソニーの圧力があったとも言われる[誰?]。
なお、マイケルはこの頃2期目の再選を狙っていたジョージ・W・ブッシュ大統領の政治方針に反対し、民主党を支持し資金集めに協力しようと、2002年4月にアポロ劇場で「Black or White」「Heal The World」を披露している。
2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せた。マスコミが「手すりの辺りでブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連しベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。訴追はされなかったが、世界的な非難を浴びて「弁解はしません。私は大きな過ちを犯しました。(あの時)とても興奮していました。私は自分の子供たちを故意に危険にさらすようなことは、絶対にしません」と謝罪した。マイケルの友人であるユリ・ゲラーは「マイケルには多大な精神的プレッシャーがかかっていて、また時差ぼけもあります。彼のしたことは間違っています。何も考えていなかったのでしょう。興奮しすぎていたのかもしれません。でも最高の父親です」と語っている。なお、この際子供の顔を隠していたことも一部で話題となったが、これはパパラッチから子供たちを守るために顔を隠していると言われている[誰?]。
2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェームス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加した。ステージ上でマイケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりのことであった。その後マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。この際、会場にはマイケルと共にラトーヤも姿を見せた。この年、ノーベル平和賞に再びノミネートされる。
同時多発テロ被害者の支援のために作られたにもかかわらず、長らく棚上げの状態が続いていた「ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ」であったが、何とかして発売できないかと検討した結果、オンラインで2ドルで販売する事が決定し、2003年10月にダウンロードが始まった。これによって集まった資金は子供の組織に寄贈された。
2003年11月18日にベスト盤「ナンバー・ワンズ」をリリース。この直後マイケルは性的虐待疑惑で逮捕され、いわゆる「マイケル・ジャクソン裁判」が始まり、世界各国のマスコミから衆目を浴びる。
2004年12月15日限定発売ボックスセット「The Ultimate Collection」を発売。アルバムの中には、イラク戦争に対する反戦歌として2004年にレコーディングされた「We've had enough」も収められている。
2005年6月13日、性的虐待疑惑のすべての件に関して無罪評決が下る。同月、裁判の療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住した。
2005年7月、2枚組のベスト盤「The Essential Michael Jackson」を発売。アメリカでは最高位96位と振るわなかったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランス(コンピレーションアルバムチャート)やベルギーでは首位を奪う(フランスではコンピレーションアルバムチャートで6週もの間首位の座を守り続ける)。
2005年のハリケーン・カトリーナの被害に際してもチャリティシングル「I Have A Dream」を企画。だが、前回同様にレコード契約を決めないまま制作した影響もあり、現在発売未定となっている。仮名は「From The Bottom Of My Heart」であり、正式名称はキャロル・ベイヤー・セイガー、デヴィッド・フォスターと共作した1999年10月発売予定だった曲の名前と同じである。
2006-2009 [編集]
2006年には、元ジャクソン5のドラマー、ジョニー・ジャクソンが刺殺される事件が発生する。同年マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(ヴィジョナリー)として再発売され、スペインのチャートではマイケルの曲が再発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。
2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラ・ビン・ハマド・アール・ハリーファとの合弁会社、トゥー・シーズ・レコーズと契約。同年5月26日、1998年世界空手道連盟のイベントに出席して以来の来日。「日本にはいい思い出がたくさんあるのでとても楽しみ。変わらぬ愛で僕をサポートしてくれたファンのみなさんに会えることを楽しみにしている」と語る。27日、日本でMTVジャパンが主催する「MTV Video Music Awards Japan」に出席し、裁判以降初めて公の場に姿を現した。28日自身の子供達と共に児童養護施設「星美ホーム」を訪問。29日にはアジア財界のメンバーと会談した後に、YOSHIKIや叶姉妹らと対面した。
また、6月5日放送のSMAP×SMAP(収録は5月31日)に飛び入りの形で出演した。マイケルがテレビのバラエティー番組に出演するのは世界で初めてのことである。関東地区の視聴率は22.0パーセント、瞬間最高視聴率は25.9パーセントを記録した。出演料は20万ドル(約2000万円)。結果的にこの出演が生前最後のテレビ番組出演になった。
パリのディズニーランドで次男プリンス・マイケル2世とともに(2006年6月18日)
6月17、18日にはベルリンで、マイケルの無罪評決1周年を祝うパーティーが開催された。W杯ドイツ大会では世界発売されたFIFA公式アルバム「Voices」に参加し「アース・ソング」を収録している。
音楽活動も本格的に再開され、2007年後半のニューアルバムの発売が4月に発表された。5月にはニューアルバムの製作にマイケルのアルバムを3作品共同プロデュースしてきたテディ・ライリーが再び参加すると伝えられた。2006年6月にはレイモン・ベインが声明を出し、レコーディングの為にバーレーンの住居は維持したままヨーロッパに移住する予定があるというマイケルの意向を伝えた。また、同月MJJプロダクションズを段階的に廃止する目的で、マイケル・ジャクソン・カンパニーを設立した。
8月25日午後2時25分頃、ネバーランドの西側で森林火災が発生したが、午後7時半頃には鎮火。
9月、バーレーンのアブドゥラ王子の所有するトゥー・シーズ・レコードとの提携を解消。4月にガット・レコード会長のガイ・ホームズがトゥー・シーズの代表取締役に就任するという報道があったが、ホームズによると正式な契約は交わしていなかったのだという。そのため、6月に設立が発表されたマイケル・ジャクソン・カンパニーがレコード会社としての役割を担うこととなる。
11月14日、ギネス・ワールド・レコーズが、アルバム「スリラー」の総売上げ枚数を1億400万枚と認定したと報道される。だが、実際には6500万枚と記載されていた。同日、新たに8部門に関して世界記録認定書を授与された。11月15日のロンドンのアールズ・コート・アリーナで開催されたワールド・ミュージック・アウォード2006ではマイケルは7億5000万枚の総売り上げを誇るとされた。
12月14日、日本にて同月19日に行われる予定だったMichael Jackson Premium Christmas Partyが急遽延期された。高額なチケット料金に一部見直しが図られ、また2007年3月9日,10日と二日間に渡り行われることになった。デーブ・スペクターのMC登板に、以前から彼からマイケルのゴシップ報道を聞いていたファンによる批判が相次いだ。
12月25日、ジェームズ・ブラウンが死去。ブラウンは生前自分がマイケルに対し好意を持っていた事を述べ、「アメリカへ戻って来る事については心配するなと伝えてくれ」と語っていた。そのマイケルはクリスマスからアメリカ合衆国に帰国し、ラスベガスに滞在する。マイケルは12月27日、レイモン・ベインを通じ「ブラウン氏に対し常に抱いていた愛情と尊敬の念は、言葉では充分に語り尽くせません」というコメントを出す。12月30日にはブラウンの告別式がジョージア州オーガスタのジェームス・ブラウン・アリーナで行われ、約9千人の参列者が参列。マイケルも参列しスピーチを行う。マイケルは棺に口付け別れを惜しんだ。
2007年3月4日にファン感謝イベントに参加するために成田空港より約1年ぶりの来日。3月5日、子供たちのためにビックカメラ有楽町本店を貸し切っておもちゃなどを購入。3月7日、東京ディズニーシーを初訪問。3月8日と9日に「ファン感謝デー」が開催。3月10日14時過ぎ、神奈川県の在日アメリカ軍基地の「キャンプ座間」の「ヤノ・フィットネス・センター」でおよそ3000人の兵士やその家族から歓迎を受ける。3月14日に離日。
2008年2月、スリラー25周年記念エディションをリリース。エイコン、ウィル・アイ・アム、カニエ・ウェストらによる同アルバム収録曲のリミックスが収録されている。
2008年9月、「Michael Jackson King of Pop」をマイケル生誕50周年を記念してリリース。世界20ヶ国以上でそれぞれの国でファン投票を行い、日本盤ではその中の15曲が収録された。
2009年3月、「7月にロンドンのO2アリーナで10公演を行う。これは“ファイナル・カーテン・コール”である」と発表。その後「ディス・イズ・イット」(This is it.)のタイトルで50回に渡る公演が行われることが発表された。チケットは全公演分が即日完売した[9]。なお、当初は7月8日からスタートする予定であったが、7月13日からのスタートに延期された。また、この頃より「ディス・イズ・イット」の準備及びリハーサルに入った。
2009年6月25日(カリフォルニア時間)14時26分に死亡が確認される。50歳だった。彼の死は全世界のレコードチャートに影響を与えた。全英では直後に「ナンバー・ワンズ」が1位を獲得。その後「エッシェンシャル・マイケル・ジャクソン」が7週連続で1位を獲得。本国アメリカのビルボードチャートでは当時は新譜のみ扱うというルールがあり、マイケルの作品は旧譜のカタログ扱いでランクインされなかったが、サウンドスキャンからの総合セールスでは「ナンバー・ワンズ」「エッシェンシャル・マイケル・ジャクソン」「スリラー」の3作がこの週首位のブラック・アイド・ピーズの「The E.N.D.」を上回る売り上げを記録。カタログチャートの作品がビルボードの本チ